|
胡 若愚(こ じゃくぐ)は、中華民国の軍人。雲南派(滇軍)の有力軍人である。後に国民革命軍、新広西派に属した。別名は学礼。字は子嘉。同時代には、奉天派の政治家で国民政府時代に青島市長などをつとめた胡若愚という人物もいるが、これは同姓同名の別人である。 == 事績 == === 滇軍での昇進 === 地主の家柄で、父は秀才である。胡若愚は、羅平両等小学堂を卒業後、1910年(宣統2年)に雲南陸軍講武堂第4期で学ぶ。1911年(宣統3年)10月の昆明重九起義(雲南辛亥革命)では、革命派として参加した。その後は、唐継尭の下で昇進を重ね、護国戦争や護法戦争にも参戦している。1918年(民国7年)、旅長となった。 1922年(民国11年)春、胡若愚は、唐継尭から第2路司令兼前敵副総指揮(すぐに総指揮に昇格)に任命され、顧品珍を倒して唐の復権に貢献した。この功績により、胡は滇中鎮守使兼戒厳司令に任じられ昆明に駐屯した。まもなく滇南鎮守使に異動し、蒙自に駐屯した。この時、竜雲・張汝驥・李選廷も鎮守使に任命され、胡とともに唐配下の4鎮守使となっている。 1925年(民国14年)、唐継尭の命令により、胡若愚は竜雲らとともに広西省へ進攻した。しかし、李宗仁ら新広西派の反撃にあって敗退した。その後、唐が弟の唐継虞らを重用して4鎮守使の権限を削減しようとする。さらに国民政府に逆らって独自路線をとろうとしたため、胡、竜らは反感を抱いた。 1927年(民国16年)2月6日、4鎮守使は兵変を起こして唐兄弟を下野に追い込む。3月8日、胡若愚は、雲南省政府省務委員会主席委員として、国民政府への忠誠を誓った。胡は国民革命軍第39軍軍長、竜は国民革命軍第38軍軍長にそれぞれ任命されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「胡若愚 (雲南)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|